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お祖母さんが愛用していた革のバッグを
「もうあなたも大きくなったからね」
と、受け継いで、喜んで使っていたところ、
ある人から
「あっ、それは有名なブランドの、貴重な型のものじゃない?」
と指摘され、調べてみたところそれは本当に貴重なものだったとわかる、
というような話をたまに耳にします。
自分が持っているものの価値や、それがたどってきた物語を
まったく知らないままでいる、ということは、よくあることです。
長年連れ添ってきたつれあいに、誕生日プレゼントを買おうとしたけれど
相手が何をもらったら喜ぶのか、見当もつかない
という人がいます。
これもまた、
ずっと近くにあった存在のことを、ほとんど知らずにいる
という現象です。
私たちは、未知の世界や遠くにあるものに憧れ、それを知ろうとします。
深遠な学問や複雑な専門分野に踏み込んで、苦労をして知識を拡げていきます。
その一方で
「当然知っていても良さそうなこと」について
まるで知らずに暮らしていることが、往々にしてあります。
好きな人がすきなもののこと。
庭に咲く花の名前。
生まれる前から家の書棚にある本。
住んでいる場所の地名の由来。
知ろうと思えばすぐに解るようなことを、
視界に入っていないかのように、ほっぽらかしにしてあります。
そこに、ときたま「客人」が訪ねて来て
「これは素晴らしい本ですね」とか
「ここは由緒ある場所なんですよ、それが知名に表れています」
などといわれたりすると
突然、自分がいる世界の価値や意味、物語に気づき、
猛然と調べ物を始めたりするわけです。
ありふれた下らないもの、それをやったって何になるわけでもないようなこと。
そうしたもののなかに、宇宙のような広がりを発見し、
その宇宙に、宇宙船を仕立てて乗り込むように旅するとき、
私たちは新しい言語と、新しい自分の物語を発見します。
その新しい言葉を元に、他者と語り合ったとき、
さらに、外側に向かって大きな世界が開けていきます。
「幸福の青い鳥」の物語は、今の私たちに非常に示唆的です。
インターネットが普及し、様々な端末を携えて
私たちの目は「外へ、外へ」と向かいますが、
青い鳥が自由に飛べる広い空は
私たちの身体だけが知る「いま、ここ」にある世界に
ひそかに、隠されているのではないでしょうか。
2013年、あなたは「知ろうとすれば、すぐにわかること」の世界を
ぐんぐん旅し、その世界の広さに驚かされることになります。
そうしていると、不思議なことに
あなたの周りにいる人や、あなたと出会う人々が
あなたに対して、それと同じことをしてくれるのです。
つまり、あなたについて、彼らが
「知ろうとすれば、すぐにわかること」を
知ろうとしてくれるのです。
解り合える関わり、自分を知ってくれている人々。
そうした人々との自然な交流が生まれます。
「あの人は私のことを解ってくれている」という表現は
たいてい「自分の全てを丸ごと理解し承認してくれる」というような意味で用いられます。
でも、人と人とがどんなに密接に関わったとしても
「相手の全てを理解して承認する」
というようなことは、たぶん、不可能だろうと思います。
人の内面や歴史は、それぞれが一つの宇宙のような広がりを持っていて
自分でも、自分についてわからないことはたくさんあるわけです。
人は、「相知る」ときに、
かならず、部分的に「相知って」います。
そうした、自分のある部分をよく知ってくれている人、というのが
世界にちらばっていて、
そういう散らばり自体もまた、自分の人生そのもの、といえるかもしれません。
2013年は、誰か1人に全面的に理解してもらう、という幻想から離れ、
お互いに
「あなたのこういう所を知っている」「あなたのこの面とつきあっている」
と思えるような関わりを、拡げていけるだろうと思います。
相手について「まだ知らない部分」ではなく
「すでに知っている部分」「知ろうとすればすぐ解る部分」を共有し、
そこに橋を架けていくのです。
あなたの周りに、そういう橋が何本も架かり、
あなたの人生の物語が、何頁も何頁も、濃く書き込まれていくことになるでしょう。
そうするうちに、そのうちのいくつかの橋が、
時間の積み重なりの中で太く強くなり、
やがて、かけがえのない特別な橋に変わっていくかもしれません。