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なにかをかわいがったり、育てたり、
世話を焼いたり、愛したりするとき、
私たちはいったい、
何を得ているのでしょうか。
これを言葉で説明するのは
ちょっと難しいようにも思われます。
見返りがほしくてやっていることはもちろん、
「愛」とは呼べないわけなのですが
だからといって、
何も得ていないわけでもありません。
むしろ、何かを愛することによって
「人生において望めることのすべてを得た」
と感じる人だって、おそらく、いるはずです。
これは、
「世話をしたり愛したりした対象が、お礼に何かをしてくれた」
ということではありません。
ただ惜しみなく何かを与えるということそれ自体が
私たちに「なにごとか」をもたらすことがあるのですが
それが一体どういうものなのか、
それを言葉にすることは、とても難しい
ということなんだろうと思います。
たとえば、
私は子どもの頃、犬を飼ったことがあるのですが
知人の家で生まれた子犬が家に来たとき、
子犬はとてもめずらしく、愛らしく、
見ているだけで面白く楽しい存在でした。
家族はみんなでその子犬を可愛がり、
そのことがひとつの、大きな喜びだった、
といって良かったと思います。
愛することで最初に「受け取れるもの」は、
こうした、純粋な出会いや発見のよろこびです。
子犬がだんだん大きくなり、
最初の物珍しさは薄れ
愛らしさへの感嘆もだんだん、消えていきます。
犬は生活の中に馴染み、
「あたりまえ」のものとなっていきます。
世話をするのが時には面倒に感じられるようにもなります。
ですがその一方で、
犬はかけがえのない家族の一員となり、
存在感が増していきます。
そして、たとえば散歩に連れ出したり、
エサをやったりすることで、
小学生だった私にも
生き物を世話することの責任感が湧いたり、
散歩に連れ出すことで体力がついたり、
というふうに、
「得るもの」はその性質を変えて、
だんだん、大きくなっていきます。
私自身が、犬によって育てられ、
変えられていった、と言えると思います。
2016年は、どの星座の人にとっても9月に、
大きな時間の扉が置かれています。
牡牛座の人にとってはおそらく、
上記の子犬の例で行くと、
9月までの時間帯が
「愛らしい子犬から得るもの」
を受けとる時間で、
9月以降の時間帯が、
「大きくなった犬から得られるもの」
を受けとる時間、
というふうに当てはめることができると思います。
喜びや楽しさ、面白さを受けとって
それをどんどん高めていく時間から、
それがいつか「自分のもの」になり、
自分の心の奥深くにあるなにごとかに、
じっくりと作用していく時間へと
シフトしていくのです。
愛することは、深く考え続けることです。
そこには、正解がないからです。
たとえば、Aという人が窮地に立たされたとして
Aを愛しているBはAに声をかけ、
同じくAを愛しているCは、
愛ゆえに、何も言わないことを選ぶかもしれません。
これは、どちらかが正解ということではなく
おそらく、AはBの言葉からも、
Cの「言葉をかけない」という気遣いからも、
同じように、助けられ救われることができるのです。
BもCも、愛のもとに考え尽くした結果、
それぞれの道を選んだはずです。
だからこそ、Aは彼等の別々のアクションを通して、
その向こうにある愛を受けとることになったのです。
このとき、BもCも、
Aへの「愛」については
自覚はしなかったかもしれません。
ただAの苦境だけが念頭にあったかもしれません。
「愛」という言葉は、大変華やかですが
たとえば、子犬をもらってきて愛するということは
食べものをやったり、フンの始末をしたり、
食べたものをはきもどしたのを心配しながら片付けたりする、
といったことになります。
このときもやっぱり、世話をしている当人の頭には
「愛」という文字は浮かばないかもしれません。
2016年、牡牛座の人が生きる「愛」の世界は
そんなふうに、すこぶるリアルで
対象から「請け負うもの」がたくさんあるようです。
でも、そこではかならず
「愛」という言葉からだれもが連想する、
ある種の深い充足や幸福感、
そして、この広い、とりつく縞もない世界と、
自分とがまちがいなく結びついている、という
あの、奇跡のような実感を
得ることになるだろうと思います。