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たとえばフィクションの世界では、
世界の全てを手に入れようとする魔王とか、
愛をこじらせて人を傷つけようとするゾンビなどが
「悪役」として、よく出てきます。
テレビのサスペンスドラマで、
犯人が語る「犯行の動機」は、
たいてい、お金か愛です。
2020年の射手座の人々が
「悪役になる」
というのではもちろん、ありません。
ただ、世の中的には
「悪」と分類されるような思いこそが、
2020年の射手座の活動の原動力となっている
ということは、言えるかもしれません。
そもそも「お金」も「愛」も、
それ自体ではちっとも悪いものではなくて、
むしろ、皆が喉から手が出るほど欲しがっている、
憧れの的です。
ただ、皆が欲しがっているものだからこそ、
それをダイレクトに
「とりに行こう」
とすると、邪魔が入るというわけです。
貪欲はよくない、
ワガママはよくない、
愛に溺れるのはよくない、等々、
皆が欲しがるものだからこそ、
それに振りまわされないよう、
厳しく戒められています。
ゆえに、多くの人の心の中で
「たくさんのものを欲するのはいけないことだ」
「愛することは恥ずかしいことだ」
などの「禁止」が育ちます。
この「禁止」が過剰な力を持つようになると、
私たちはほとんど、
生命力を失わされてしまいます。
2020年の射手座の人々は
そうした「禁止」を超えて、
愛も欲も、どんどん充たしていくことができます。
ほしいものが手に入りますし、
情熱を注ぐ対象に恵まれます。
それを「ワガママだ」と言う人もいるかもしれませんし、
あなたの「これがいい!」という思いを、
「それは違うのでは?」と
否定してくる人もいるかもしれません。
でも、それらの否定には、
なんら本質的なものは含まれていません。
主観と客観は、
どちらが正しいでしょうか。
「客観的である」ことは褒められますが、
「主観」は「思い込み」に近いものとして、
厳しく糾弾されることがあります。
「私がこう思う」「自分はこう考える」
ということを後回しにするよう、
諭されてしまうのです。
でも、自分で何も感じたことがない人に、
一体何を語れるでしょうか。
自分でなにかを感じていても
それを「是」と思えない人に、
自分から行動を起こすことができるでしょうか。
客観的であろうとするあまり、
自分の意見を持てなくなっている人も、
しばしば見かけます。
もちろん
「人の意見に耳を貸さない」
という態度には問題があります。
ですがそもそも自分の意見がない状態で
「人の意見」にだけ耳を傾けていたら、
他人に心を乗っ取られてしまうようなものです。
2020年、射手座の人々は
「自分の感覚」
「自分の欲望」
「主観」
を軸にして動くことができます。
「自分の感覚・主観」は、
当然、他人のそれとは違うので、
ぶつかったりすれ違ったりすることも、
時にはあるかもしれません。
「万人に好かれるもの」などはないので、
「自分の思い」に従って生きる時、
私たちは「世間の正解」から遠ざかります。
自分のこだわり、自分の愛、自分の審美眼。
それを信じることができるかどうかが、
2020年の分岐点となるのかもしれません。
ほしいものを手に入れること、
大切なものを情熱的に愛すること。
2020年の射手座の世界は、
生き物としての生命力の純粋さに貫かれています。
主観の濃い人ほど、
他者と話したとき、
語るべきことをたくさん持っています。
自分の中に確たる主観がある人は、
喩えそれが間違っていたとしても、
客観的な情報に触れたとき、
「それがどういう意味を持つか」
を深く感じとることができます。
射手座の人々はもともと、
しっかりした主観を持っています。
でも、それに「縛られない」のが、
とても特徴的です。
自分が考えたこと、信じたことがあって、
それにとても忠実なのですが、
その「信じたこと」を覆す説に出会った時、
論理的に正しそうだ、と判断すれば、
自説をくるっと変更できるのです。
2020年はしかし、
その「変更」にも、
いつもより時間をかけることになるかもしれません。
たとえ自説と違った話をする人がいても、
簡単には納得しないぞ、と
踏み止まることになるかもしれません。
2020年のあなたの「感じたこと」は、
それほど、強力なのです。
感受性をフルに活かし、
確固たる主観を起ち上げ、
ほしいもの何か、
愛すべきものは何かを見つめながら、
2020年の射手座の世界は拡大していきます。